辻褄が合わないために確信することができない。
そしてそう思いたくない 。

だけど心の底ではそう思っている。
そのジレンマから抜け出せない。


自分を騙せていた頃が懐かしいくらいに
今は自分を騙せない。

それは良いことなのかもしれない。

でも前に進むための力を作ることができない。

本当はあれでよかったのかもしれない。

受け入れられないことも、工夫して受け入れて新しい自分に生まれ変わったつもりで
生きていた。

過去の自分も否定せず、過去の自分として。

愛されるため、愛するためだけに
ひたすら頑張っていた。

それでよかったのかもしれない。
それが私の生きる目的で正しい生き方だったのかもしれない。

どんなに虚しい人生でも、誰かの中に生きることは
何より心の薬になったのだから。

私が今悲しいのはきっと、失った時間そのものよりも、昔の自分が死んだ悲しみからなのかもしれない。
人は成長していくにつれて必然的に失なっていく。
でも私はそれ以上に何かを失っている。

だけどこれからも失なっていくものは増えていく。
容赦なく。

だから前を向きたいのに前を向けない。

大人になるにつれて、人を支える側になるはずなのに、私はいつまでもそれができない。

悲しい経験と記憶ばかりが積もっていき
嬉しかった記憶や幸せを感じた記憶ごと
全て無かったことにしたいくらい
悲しすぎる記憶やトラウマが沢山ある。

そして私は何故か間違った道を選んでは
不要な徒労ばかりをして自分を傷つけていた。

私は恵まれていると思う。
人生が変わるチャンスはすぐそこにあると思う。

だけど、どれが幸せになれる道なのだろう。


もしかしたら
何があってももう幸せにはなれないかもしれない。

だけどここで頑張ることをやめたなら
私は本当に孤独になり、僅かに与えられていた
楽しみや喜びさえも失い、
ただただ今よりずっと幸せだった頃の記憶を
思い出すだけの人生になる。

そして常に病気に怯えて苦しみながら
なかなか死ぬことができない。

時間をもてあます割に
経つのがますます早くなる。

その女性は26歳で無職。家事手伝いでさえなく毎日パソコンばかりして過ごしている。

週に二回、整体に通っている。

その先生とは仲が良く、無料で施術をしてもらっている。

外出はあまりしないが友達もとりあえずいる。恋人はなし。

彼女は精神障碍者手帳2級を持っていて、障害者年金を受け取っている。

彼女はよく体の痛みと変化を訴えている。

外出時はいつもマスクをつける。

そんな彼女に家族は寛容であり、無理に働かせようとせず、自由にさせている。

彼女は発達障害者でもある。

 

彼女は作業所に見学に行ったがどこにも行かなかった。

彼女はあまり話さない。話さないが、寡黙というわけでもない。

話してみると、全く普通に話す。

私から見れば彼女は全く普通だ。

少し自信がなく見えるが、病んでるとか、精神的に幼いとかいうのも特に感じないし、

話せばごく普通の女性だ。

skypeを使って海外の人と通話もしている。

英語は話せないらしいがなんとかなっているらしい。

着飾っていないせいか、見た目はどちらかというと若く見える。

彼女はペットとして文鳥を飼っていて、文鳥の話をするときはとても楽しそうだ。

好きな芸能人はpentatonixのmitchさんだそうだ。

 

彼女を知らない人は、彼女が障害者だなんて、まず思わないだろう。

いや彼女の事を知ったら、周りが甘やかしすぎだとか思う人も少なくないだろう。

実際彼女は確かに恵まれているし、発達障害者でも働かずにはいられない人も多い。

 

彼女は努力をしようとしない。

働く意欲もなくなってしまったようだ。

 

だが私は彼女の苦しみを知っている。

彼女がどれだけの苦悩と葛藤を乗り越えてきたか、そしてまた新たな試練が

彼女を襲っていることも知っている。

彼女は確かに今は周りの事を考えず勝手に見える。

だが彼女は確実に成長しているし、とても不器用なだけだ。

彼女は、人とは違う経験をしている。発達障害とは関係なく。

彼女は誰よりも孤独だ。

彼女がこうなってしまったのは、必然なんかではない。

私は彼女になんとしてでも乗り越えて欲しいと思っている。

私からすれば彼女はとても強い人だ。

 

彼女にしてみれば、今すぐ死んだ方が幸せかもしれないけれど、私は生きて欲しいと思っている。

彼女に幸せになって欲しい。

心からそう願っている。

 

私は彼女を救いたい。

本来の彼女の姿を見たい。

 

誰がどう思おうと私だけは彼女の味方でいなくちゃならない。

悲しい話

いつの間にか自分を愛したり、大切にすることができなくなっていた。

いつの間にか人を愛したり、大切にすることができなくなっていた。

 

そしていつの間にか人のせいにし、物事を歪めて見るようになってしまった。

 

本来は人が好きだった。

 

もう一度あの頃のような気持ちに戻りたい。

 

愛情深い人は好き嫌いが激しい。

好き嫌いがあまりない人は冷めている。

 

そんな悲しい矛盾がある。

 

私は満たされない思いと癒されない苦しみを紛らわすために

感情をマヒさせていた。

 

寂しさはなくなったが、なんの喜びも感動もない日常が続き、

自分はあの頃に取り残されたまま時間が過ぎていった。

 

 

「人類の未来はすでに決まっていて、未来は誰かが変えてくれるのを待っている」

という話を聞いたことがある。

悲しくも頭が鈍い私はその理由を論理的に理解することができない。

 

でもなんとなくわかるような気もする。

 

 

人は幸せになるためにではなく、幸せだから生きる

どんなに頭で分かっていても、心が付いてこれない。

孤独になる原因は自分にあるし、自ら人を敵に回して遠ざけて馬鹿みたいなのに、

自分から変わって周りにいい影響与えようだとかそういう強さがない。

自分を救う人は自分しかいない、どんなに相手が非力でも少しでもプラスになる存在であればそれでいい。

肩書なんて気にしちゃいけない。

でも、実際にそうやって自分に自信や芯を持って生きられる人っていうのは

ある程度恵まれている人なんだよ。

まともな体を持ってない人間にはそれができない。

どんなに気を強く持とうとしても、心と体は一体だから。

自己中な両親が嫌いなら、自分は違う人間になればいい、そう思うけど難しい。

自分が求める人物がここにいないのなら、見つかるまで探せばいい。

こんな時代でも必ずどこかにはいるはずだから。

私の体を治してくれる人が。

 

でも私は最終的に何のために生きているのだろう。

愛を見つける為だけの人生なんて、物凄く馬鹿馬鹿しい。

自分が自分を好きであるなら、それで十分だし、

自然と愛される人になれるのに。

やりたいことを自然にやって、世界が広がり発展していくのに。

 

昔みたいに今ある目の前の問題だけに集中していればよかったんだろうか。

余計な知識ばっかり増えて、何の役にも立たない。

昔みたいに、生きてるだけで楽しみを自然と見つけられるようになれたら。

 

今を楽しめなくなったのは、大人になったとか、知識が増えたからとかそういうんじゃない。

ストレスやあらゆる有害な物に侵されて、

本来あるはずの幸せを感じる能力が低下したからだ。

何歳からでも幸せにはなれる。

 

最近よく言われてるけど幸せホルモンとかいうのが出れば。

どんな環境でも、どんな記憶を持っていても(多分)人は幸せになれる。

 

 

 

地震に対する人々の反応が淡白

やっとブログに手を出すことができました。
今日午後9時頃地震が発生しました。
母のスマホの「地震です」の警告の直後に大きな揺れが。
といっても震源地から離れていたので震度4程度
でしたが。
飼い鳥が驚いて飛んでいたので、揺れが収まるまで
手の中で安心させました。
音はうるさかったわりに揺れはほとんど感じませんでしたが、人生でこれが一番大きな地震です。
でも、本当に驚いたのは、震源地が祖父母の家の下だったこと。
幸いにもその家で一人で住んでた祖母の安否はとることができました。
まさか震源地がくるだなんて、何が起こるかわかりません。
最近祖父母にも会ってないし、明日援助に行くことにしました。
思い出の家はぐちゃぐちゃになってしまったらしいけど 祖母が無事で本当によかった。
震度7って最大というか、怖いかっただろうな…
明日私もそこに行くので余震として大きな揺れを感じることはあるかもしれません。

ただ悲しかったことは
いくら大地震が珍しくなくなったとはいえ、
周りの人の反応がとても淡白だったこと。
祖父母の家が震源地で、しかも余震が続くその現場に
私が行くっていうのに誰も本気で心配していない。
面白半分または軽い反応、無関心。
心配しているといいながら関係ない自分の話ばかり楽しそうにする。
まあ、その程度の人間関係しか築くことができない
私にも問題はあるんだろうけど、悲しかった。
最近人間関係に淡白だったのもよくなかったんだろうな。
私の人生はとっくに光を失って錆びてしまったけど
いろいろ変わっていくんだね。
何もしないでいればよかった。本当に。
いつも裏目にでてしまう。